春の来ない世代──『母さん、ありがとう…』の下で途切れた息

【漫画】老後に後悔しない

──冷たい床に転がった携帯電話が、短く震えた。
画面には、たった一言。
「契約終了のお知らせ」
その瞬間、54歳の中野弘(なかのひろし)は、まるで自分の人生が削除されたような気がした。
部屋の電気代は滞納中。冷蔵庫には水と賞味期限切れのパンが一つ。
外は冬の雨。
薄い毛布の下で、彼は呟いた。
「俺、どこで間違えたんだろうな……


1970年代生まれ。
バブル崩壊の渦中で社会に出た「就職氷河期世代」。
彼が大学を卒業した1995年、求人倍率は過去最低。
面接ではいつも同じ言葉を浴びせられた。
「君たちの世代は、運が悪かったね」
努力しても報われない現実。
周囲の友人たちも次々と派遣、契約、アルバイトへと沈んでいった。
「とりあえず働ければいいや」
そう思ったのが、すべての始まりだった。

最初の就職先は、小さな印刷会社。
手取り13万円、ボーナスなし。
3年頑張れば正社員にする」――その言葉を信じた。
だが3年後、会社は倒産。
支払われなかった給料が、机の引き出しにしまったままの給与明細に残った。


それから20年。
弘の人生は、常に非正規という名の鎖につながれていた。
倉庫作業、深夜警備、日雇い清掃。
仕事はあっても、未来はなかった。
「正社員は35歳まで」と求人票に書かれた文字を見るたび、胸が痛んだ。
履歴書の「職歴」欄は、何度も書いては消された。
俺は社会の必要ない人間なのか
そう思う夜が、何度もあった。

40代に入り、ようやく契約社員として安定した仕事に就けた。
それは食品工場のライン作業。
同年代の男たちが家族のために働く姿を横目に、弘は黙々と惣菜のパックを詰め続けた。
「俺も、誰かに必要とされたい」
そう願ったが、給料は月16万円。
結婚も、家も、貯金も、夢のまた夢だった。


人生の転機は、コロナ禍だった。
工場が閉鎖され、全員解雇。
「ごめんね、もう契約は更新できないんだ」
責任者の言葉は、あまりにも素っ気なかった。
次の日、会社のロッカーには白い封筒が置かれていた。
退職届のコピーと、源泉徴収票。
それだけだった。

生活のライフラインをかろうじて支えてくれた給料がなくなった。

それ以後、彼は安いボロアパートを追われ、ネットカフェを転々とする生活になってしまった。
朝はコンビニで廃棄予定のパンを買い、夜はSNSで求人を探した。
「未経験歓迎!寮完備!」
その文字に惹かれて応募した工場は、実態は違法まがいの下請け。
重労働の末、膝を壊し、またクビ。
運が悪いという言葉が、呪いのように頭を離れなかった。


それでも、母の介護が必要になったとき、彼は実家へ戻った。
老いた母は、「あんたも大変ねぇ」と笑いながら味噌汁を作ってくれた。
だが介護は想像以上に重くのしかかった。
生活費を削り、深夜バイトに出る。
眠る時間を削って母の世話をした。
ある朝、母は布団の中で静かに冷たくなっていた。
「お前の人生、苦労ばっかりだったね」と、最後に小さく呟いた言葉だけが残った。

葬儀を終えた夜、弘は台所の椅子に座り込み、頭を抱えた。
銀行口座には、残高4,726円。
頼れる親族はいない。
電話帳に登録された友人の多くは、すでに番号が変わっていた。


そして現在、54歳。
再び派遣労働に戻った彼に、コロナ後の景気回復など関係なかった。

少しでも良い派遣先を探そうと努力はしたが、
「若い人を採りたいんで」
何十回も聞いたその言葉。
履歴書の生年月日が、採用を拒む壁になった。
派遣先で若い社員から「おじさん、まだやってんの?」と笑われた日、
心の中で何かが音を立てて崩れた。

家に帰ると、電気が止められていた。
暗闇の中で、スマホのライトをつける。
部屋の隅に、母の遺影が小さく光った。
「母さん、俺、どうしたらよかったんだろうな」
答えは返ってこない。
静寂だけが、人生の残り時間を刻んでいた。


それから数年後の秋の夜。
派遣会社から「契約終了」のメールが届いた。
「業務縮小のため、来月からの契約更新はありません。」
と、たった二行。
10
年以上働いてきた人間への通知が、それだけだった。
弘はスマホを放り投げ、壁に拳をぶつけた。
「ふざけんなよ……!」
だが、怒りをぶつける相手はいなかった。
涙が滲んだ。
「俺の人生、誰が保証してくれるんだよ……


冬のある朝、彼は駅前でビラ配りのアルバイトをしていた。
通り過ぎる人々はスマホを見ながら、誰も彼を見ようとしない。
ふとガラスに映る自分の姿を見た。
やつれた顔、くたびれたジャンパー、白髪まじりの頭。
「いつの間に、こんな顔になったんだろうな」
風が吹き、ビラが散った。
拾う気力もなく、しゃがみ込んだ。
そのとき、小学生が無邪気に笑いながら通り過ぎた。
未来という言葉が、あまりに遠く感じた。


その夜、部屋のガスが止まった。
寒さに震えながら、彼はスマホのメモを開いた。
そこには、母の命日に書いた言葉が残っていた。
《もう少し頑張るよ。心配すんな。》
涙があふれた。
「母さん、ごめんな……俺、もう頑張る理由が見つからないんだ」
手元には、最後の缶ビール。
缶ビールを空ける音が、虚しく響いた。


数日後、アパートの管理人が異変に気づいた。
家賃の未払い、郵便物の山。
部屋を開けると、ガスの止まった冷たい空気と、倒れた男の姿。
机の上にはメモ帳が一枚。
《就職氷河期は、人生そのものを凍らせた。》
その一文の下に、かすれた文字で「母さん、ありがとう」と書かれていた。


ニュースにはならなかった。
誰も彼の名前を知らなかった。
だが、彼のような無名の氷河期世代は、いま日本に数十万人いる。
正社員になれず、家庭を持てず、年金も少なく、そして老後を迎える前に消えていく。
努力すれば報われると信じた世代ほど、報われなかった。

あなたがもしまだ若いなら――
どうか、他人事だと思わないでほしい。
社会が冷たくなれば、人の心も凍る。
そして、一度凍った人生は、もう二度と、春を迎えることはない。

#就職氷河期 #非正規 #アルバイト #派遣

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