物語本編
「俺は大丈夫だ。3,000万円貯めたからな。」
定年退職の日、山本信夫(70)は胸を張ってそう言った。地方の中堅企業で営業一筋40年。退職金は1,500万円。これまでの貯金と合わせれば、老後の生活には十分だと信じて疑わなかった。
だが、定年から5年が経った今、預金残高は900万円を切っている。
「おかしいな……大きな買い物なんてしてないのに」
通帳を眺めながら、信夫は眉をひそめた。毎月の年金は夫婦合わせて20万円弱。光熱費、食費、医療費、そして孫たちへのお小遣い。気づけば毎月赤字が3万円。赤字分は貯金を切り崩して補ってきた。
「年金だけで暮らせると思ってたのにな……」
テレビから流れる“老後破産”という言葉に、以前は鼻で笑っていた。「そんなの計画性がない人の話だ」と思っていた。だが、その“静かな破綻”が、いま自分の足元で進行していることに気づいていなかった。
妻の良子は毎朝スーパーに出かける。「今日は安かったのよ」と言って、特売の惣菜やお菓子を買い込む。安いからと買っても、冷蔵庫には似たような食品がぎっしり詰まっている。「どうせ使うから」と信夫も止めなかった。むしろ自分も通販で健康器具やゴルフ用品をつい買ってしまう。「老後の楽しみぐらい、いいじゃないか」と心の中で言い訳をした。
特に痛かったのは、息子夫婦への援助だった。孫の入学祝、成人祝、家の頭金の援助。頼まれたわけではないが、「親としてできることはしてやりたい」と思う気持ちが財布を確実に細らせていった。ある日、息子が「父さん、車のローン、ちょっと立て替えてもらえない?」と頼んできた。信夫は即座に頷いた。「老後は助け合いだ」と信じていた。だが、助け続ける関係は、やがて自分を追い詰める構図になることに気づいていなかった。
退職してもなお、毎月の支出は現役時代とあまり変わらなかった。
スマホは夫婦で大手キャリアのまま。月に1万円。新聞もケーブルテレビも解約せず、保険もそのまま。
「面倒くさいから」「今さら変えたくない」――そんな小さな惰性が積み重なり、静かに家計を蝕んでいった。
銀行の担当者が言った。
「このペースだと、あと5年で貯金が尽きますね。」
信夫はその言葉を聞いて固まった。75歳。まだ生きているのに、生活費が底をつく。老後破産という言葉が、いきなり自分の現実としてのしかかってきた。
焦った信夫は節約を始めた。電気をこまめに消す、外食をやめる。しかし、焼け石に水だった。むしろ妻との会話が減り、家の空気が重くなった。「何のために生きているんだろう」と思う夜が増えた。
そんなとき、市の広報誌に載っていた“老後破産を防ぐ使い方改革セミナー”という文字が目に入った。半信半疑で参加してみた。講師は静かな口調で言った。
「老後破産は“収入不足”ではなく、“使い方の惰性”から始まります。節約ではなく、“使う目的”を変えてください。」
信夫はハッとした。講師は続けた。
「老後の支出の7割は、“惰性と見栄”です。“なんとなく使う”“周りに合わせて使う”をやめて、“未来の自分を支える使い方”に変えてください。」
帰宅した信夫は、家計簿を開いた。無駄なサブスク、使っていない保険、惰性の新聞代。
赤ペンで線を引きながら、「何のためにこれを払っているんだ?」とつぶやいた。
そして決めた。
“見栄”と“惰性”を切り捨て、“生きる力”にお金を使うことに。
近所の図書館で本を借り、ノートに学びを写す。健康維持のために朝の散歩を日課にする。地域の清掃ボランティアに月500円の寄付を始めた。小さな行動だったが、心の中に小さな誇りが生まれた。
お金の使い方を見直すうちに、「これから自分はどう死にたいか」を考えるようになった。
“貯める”ではなく、“どう使って生きるか”。
葬式代、医療費、介護費用――老後の終盤は出費の連続だ。
だが、準備をしておくことで不安は減る。
「貯金が減ること」は怖くても、「何のために減るか」がわかっていれば、心は落ち着くのだと気づいた。
妻の良子とも何度も話し合った。
「この家にこだわるより、身軽に生きるほうがいいんじゃない?」
二人は家を売り、小さなマンションへ引っ越すことを決めた。
「寂しくない?」と聞くと、良子は笑った。
「物に囲まれているより、時間に囲まれているほうが幸せよ。」
その言葉に、信夫は静かに涙した。
破産は突然やってくるものではない。
“自分は大丈夫”と信じる人の心の中で、ゆっくりと進行する。
なんとなく払っている月額サービス。
見栄で続ける贈り物。
頼まれると断れないお金の貸し借り。
「老後は楽しく」の言葉に隠れた浪費。
それらはすべて、静かな破綻の芽だ。
ある朝、公園で信夫は同世代の男に言った。
「俺、あのままだったら破産してたかもしれない。」
「お金の使い方を変えたら、不安が減ったんだ。」
男は笑いながら言った。
「年金だけじゃ暮らせないもんなあ。」
「そう。でもな、使い方を変えると、心も変わるんだよ。」
それからの信夫の家計簿には、以前にはなかった項目が並ぶ。
「健康のためのジム会費」「地域活動への寄付」「妻との旅行貯金」。
金額は小さいが、そのお金の流れには“生きる方向”が宿っていた。
老後破産を防ぐとは、ただお金を減らさないことではない。
「何のために使うか」を問い直すことだ。
それはつまり、「どんな人生を生きたいか」を選び取ること。
“老後の使い方”とは“生き方”そのものなのだ。
75歳になった信夫は、毎朝5時に起きて散歩に出かける。途中のコンビニで100円のコーヒーを買い、ノートにこう書く。
「今日一日を、自分の意思で生きるために、何にお金を使うか。」
ページの隅には、彼が最近よく書く言葉がある。
「“もったいない”は、“まだやり直せる”という希望の言葉だ。」
貯金は減っても、心は豊かになった。
老後破産を防いだのは節約ではなく、“気づき”だった。
信夫は静かに微笑む。
老後破産は、お金の問題ではない。
それは、“生き方の惰性”から始まる。
──気づいた者だけが、救われるのだ。
コラム:「お金の使い方を見直すことで、生き方そのものを立て直す」
老後破産という言葉を聞いても、多くの人は「自分には関係ない」と思っています。けれども、その破綻は突然やってくるのではなく、静かに、じわじわと日常の中で進行していきます。物語の山本信夫さんのように、「自分は大丈夫だ」と信じていた人ほど、気づけば貯金が減り、老後の安心が崩れていくのです。老後の不安は、収入の少なさよりも、実は「使い方の惰性」から始まります。だからこそ必要なのは、節約ではなく“使い方改革”なのです。
まず大切なのは、「なんとなく」で使っているお金を見直すことです。老後の出費の多くは、実は大きな浪費ではなく、小さな惰性から生まれています。スマホ代、新聞代、保険、サブスク。どれも「必要な気がする」から続けてしまいますが、それは習慣であって、本当に自分の幸せを支えているとは限りません。自分の支出を一度紙に書き出してみて、一つひとつ「これは本当に自分の暮らしに必要か」と問い直してみてください。そうするだけで、お金の流れがはっきりと見えてきます。節約とは、苦しい我慢ではなく、「自分の価値観を取り戻す行為」なのです。
また、「人のため」にばかりお金を使う生き方も見直す必要があります。子どもや孫のために援助をしたり、頼まれれば断れなかったりする。そうした親の優しさは尊いものですが、限度を越えれば自分の生活を壊してしまいます。老後に本当に必要なのは、「助ける力」よりも「自分を保つ力」です。親が自分の人生を楽しんでいる姿こそが、子どもにとって最大の安心になります。無理をしてまで支えるのではなく、「自分の余裕を保つことが、家族を守ることにつながる」と考え方を変えることが大切です。
多くの人は「節約」と聞くと、我慢や制限を思い浮かべます。しかし、老後に必要なのは我慢ではなく、「お金の使い方の意味」を変えることです。電気を消す、外食をやめるといった節約では、心が疲れてしまいます。そうではなく、自分を支えるお金の使い方を考えることが大切です。健康を維持するために運動にお金を使う。心を満たすために本を買う。地域の活動に少し寄付をする。お金は「減らさないため」に使うのではなく、「生きる力を育てるため」に使うものなのです。
そして、老後破産を防ぐ最大の鍵は「固定費」にあります。使っていないのに毎月引き落とされているお金、それが老後家計の最大の敵です。スマホを格安プランに変えるだけで、年間十万円以上浮くこともあります。見直していない保険や、不要になった車の維持費、加入したまま放置しているサービス。こうした固定費を減らすことは、節約ではなく“暮らしの整頓”です。家の中の不要なモノを片づけるように、通帳の中も片づけてみましょう。身軽になることで、心も軽くなります。
お金の本当の役割は、モノを買うことではなく、「時間を買うこと」です。老後に最も贅沢なものは、安心して今日を生きられる時間です。だからこそ、老後資金は“長生きの不安”を減らすために使うべきです。たとえば、家を小さくして維持費を減らすこと。モノを減らして管理の手間をなくすこと。健康を保って病院に縛られない生活を目指すこと。お金を使うとは、時間を守るということなのです。そう考えると、「使うこと」が怖くなくなります。
老後破産とは、貯金が尽きることではありません。生きる目的を見失い、心が止まってしまうことです。お金の不安に押しつぶされると、人は自分を責め、周囲を羨み、そして惰性でお金を使うようになります。しかし、山本信夫さんのように一度立ち止まり、「何のために使うのか」を問い直すことができれば、人生は必ず立て直せます。お金の額よりも、「お金の意味を理解しているかどうか」が、老後の安心を決めるのです。
今日からできることは、小さくても構いません。毎日の支出を一行メモしてみること。固定費を一つだけ見直してみること。そして、買い物をするときに「これは自分の幸せを支える使い方だろうか」と自分に問いかけてみてください。たったそれだけで、静かに進行していた“破綻の芽”を止めることができます。人生は、何歳からでも修正できます。お金の使い方を変えることは、人生の使い方を変えることと同じなのです。
山本信夫さんが最後に気づいたように、「もったいない」という言葉は、「まだやり直せる」という希望の言葉です。老後の不安は、今日の小さな気づきから変わっていきます。お金を見直すことは、自分の生き方を見直すことです。その瞬間から、あなたの老後は“破産の恐怖”ではなく、“心の豊かさ”へと変わっていくのです。
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