妻がいなくなって、初めて気づいた老人 【老後に後悔しないためのチャンネル】

【漫画】老後に後悔しない

健一は、50年以上連れ添った妻に、ほとんど「ありがとう」と言ったことがなかった。

朝になれば、ご飯が出てくる。
脱いだ服は、いつの間にかきれいになっている。
薬を忘れれば、妻が声をかけてくれる。

健一にとって、それはすべて、「当たり前」のことだった。

しかし、ある冬の日。

妻の春江が、突然、台所で倒れた。

そして、妻のいない家で一人になった健一は、初めて知ることになる。

自分が何十年もの間、どれほど妻に支えられて生きてきたのかを。

数日後。

健一は、冬物の上着のポケットから、妻が残した小さな紙を見つけた。

そこに書かれていた、ほんの短い言葉を読んだ瞬間――

健一は、誰もいない部屋で、声を上げて泣いた。

これは、50年間、妻の優しさを「当たり前」だと思っていた一人の夫が、失いかけて初めて、その大切さに気づいた物語である。

当たり前だった妻の存在

「ハンカチは持ったの?」

出かける前には、いつも玄関で、この言葉が聞こえた。

「子どもじゃないんだから、分かっているよ」

そう言って、妻の顔も見ずに家を出ることが何度もあった。

結婚して、もう50年以上になる。

78歳の健一は、妻の春江と二人で暮らしていた。

健一にとって、春江が家にいることは、あまりにも当たり前のことだった。

朝になれば、温かいご飯と味噌汁が食卓に並んだ。
脱いだ服は、いつの間にか洗濯されていた。
薬を飲み忘れれば、春江が声をかけた。

しかし、いつも同じ言葉ばかりをかけられる健一は、それをうるさく感じることさえあった。

春江が作った料理にも、健一は、ほとんど何も言わなかった。

美味しくても、黙って食べた。

しかし、口に合わなかったり、少し味が薄ければ、すぐに文句を言った。

「なんだこの味は!!昔は、もう少しうまかったのにな」

春江は怒らなかった。

「年を取ったから、薄味にしているのよ」

そう言って、静かに笑った。

妻が倒れ、初めて知ったこと

ある冬の日。

突然、春江が台所で倒れた。

救急車で病院へ運ばれ、そのまま入院することになった。

命に別状はなかったが、しばらく家には帰れないと医師から告げられた。

健一は、一人で家に戻った。

玄関を開けても、春江の声はしなかった。

「おかえりなさい」

その一言がないだけで、家の中は驚くほど暗く感じられた。

次の日の朝。

健一は味噌汁を作ろうとした。

だが、味噌がどこにあるのか分からなかった。

冷蔵庫を開けても、何をどう使えばいいのか分からない。

結局、朝食はパン一枚だけだった。

洗濯機の使い方も分からなかった。
ゴミの日も覚えていなかった。
薬を飲む時間も忘れた。

ふと見ると、台所の隅には、健一の名前が書かれた小さな箱があった。

箱の中には、薬が曜日ごとに分けられていた。

「月曜日・朝」

「月曜日・夜」

几帳面な春江の字で、丁寧に書かれていた。

冷蔵庫には、紙が何枚も貼ってあった。

「健一さんの好きな煮物」

「血圧が高いので、しょうゆは少なめ」

「歯が弱くなったので、野菜は柔らかく煮る」

健一は、その紙を見たまま動けなくなった。

自分が何気なく食べていた毎日の料理は、何の考えもなしに作られていたものではなかった。

春江が健一の体を考え、好みを考え、毎日少しずつ工夫していたのだ。

タンスを開けると、肌着がきれいに畳まれていた。

靴下は左右そろえて並べてあった。

冬物の上着のポケットには、小さな紙が入っていた。

「寒くなる前に出しておきました」

その下には、もう一言書かれていた。

「風邪をひかないでね」

健一は、上着を胸に抱いた。

そして、誰もいない部屋で、初めて声を上げて泣いた。

妻は楽をしているものだとばかり思っていた。

自分が仕事で疲れているのに、専業主婦の妻は気楽なものだと思い込んでいた。

妻は毎日、自分が困らないようにしてくれていたのだ。

健一が気づかないところで、何十年もの間、暮らしを支えてくれていた。

それなのに、自分は一度でも、きちんと礼を言っただろうか。

「ありがとう」

その言葉さえ、ほとんど口にしていなかった。

病室で伝えた「ありがとう」

数日後。

健一は春江の病室を訪れた。

春江は、ベッドの上で少し痩せて見えた。

健一の顔を見ると、いつものように聞いた。

「ちゃんと、ご飯を食べている?」

健一は答えようとしたが、言葉が出なかった。

代わりに、春江の手を両手で包んだ。

その手は、小さく、細くなっていた。

この手が、何十年も家族のために働いてきたのだ。

料理を作り、洗濯をし、子どもを育て、自分を支えてくれた手だった。

健一は、春江の手に額をつけた。

「すまなかった」

春江は驚いた顔をした。

「何が?」

「何も分かっていなかった」

健一は涙を流しながら続けた。

「飯が出てくるのも、服がきれいになっているのも、家に帰れば明かりがついているのも、全部当たり前だと思っていた」

春江は黙って聞いていた。

「本当は、全部、お前がやってくれていたんだな」

健一は、何度も春江の手を握った。

「今まで、本当にありがとう」

春江の目からも、静かに涙が流れた。

そして、少し笑って言った。

「分かるのが、少し遅いですよ」

健一も泣きながら笑った。

二人で迎えた新しい日常

春江が退院した日。

健一は玄関に立ち、春江を迎えた。

食卓には、形の崩れた卵焼きと、少し濃すぎる味噌汁が並んでいた。

健一が何時間もかけて作ったものだった。

「おかえり」

春江は食卓を見て、目を丸くした。

健一は照れながら言った。

「これからは、俺も少しずつ覚える」

そして、春江の椅子を引いた。

「一緒に食べよう」

春江が味噌汁を一口飲んだ。

健一は不安そうに尋ねた。

「どうだ?」

春江は、ゆっくりとうなずいた。

「少ししょっぱいけど、美味しいですよ」

それは、健一が何十年も妻に言わなかった言葉だった。

健一は、その日の食事を忘れなかった。

長い夫婦生活の中で、初めて二人が心から「ありがとう」を伝え合った食卓だったからである。

妻のありがたみは、失ってから気づくものではない。

隣にいてくれる今日のうちに、伝えなければならない。

「ありがとう」

「いてくれて、よかった」

その言葉は、何度伝えても遅すぎることはない。

けれど、明日も伝えられるとは限らないのである。

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